深谷教会聖霊降臨節第19主日礼拝2022年10月9日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:ヨハネによる福音書14:1~4
説教:「道・真理・命」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-575、385
奏楽:小野千恵子姉
説教題 「道・真理・命」 ヨハネ福音書14章1~6節
詩編84編5節で詩編の詩人は、「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」と歌っています。父なる神さまとの親しい交わりにあるならば、最上の喜び、無上の幸いと歌っています。この詩編の詩人が求めてやまなかった父なる神さまとの永遠の親しい交わりは、救い主であるみ子イエス・キリストによって私たちに与えられている救いの恵みです。
この最上の恵みを天上の信仰の先達の方々は、私たちに手渡してくださったのです。
私たちは、万物を造り、私たち人間を造り、世界を創造された神さまをはじめから知っていたわけではありませんでした。しかし、そのような私たちを父なる神さまは憐れんでくださり、愛する独り子を私たちにお与えくださり、私たちに代わって十字架にお架けになられ、その尊い血潮を持って私たちを贖いご自分の子どもとして迎えてくださいました(ヨハネ3:16、17)。私たちは、天地を造られた神さまに向かって「アッバ、父よ」と呼びかけることができるようになりました。
私たちは、詩編の詩人が無上の喜びとして求めてやまなかった、救いの恵みにあずかっているのです。まことにありがたいことです。そして、父なる神さまと親しい交わりと言う救いの恵みは、この地上の歩みにおいて完結するものではありません。この地上の命が終わったのちも続くのです。続くというよりも、更に完全な交わりにあずかることができるようになるのです。要するに、天国に入るということです。このことをイエスさまご自身が約束してくださいました。それが今朝与えられているみ言葉です。
このヨハネ福音書14章1~6節は、教会の歴史の中で、葬儀や召天者記念礼拝において読まれ、イエスさまの約束を信じ、慰めを受けることを祈ってきました。このことは誠に適切なことです。このみ言葉は、愛する人を失った方々を慰めるみ言葉であるのです。
イエスさまは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」(14:1)とご自身が捕えられて十字架に架けられることによって動揺している弟子たちに語りかけられました。
イエスさまが本日のみ言葉を語られた時の場面は、イエスさまが十字架に架けられるために捕らえられるほんの数時間前のことで、弟子たちと最後の晩餐をしていた時のことです。弟子たちはこの時も、イエスさまが捕えられた時も、十字架に架けられた時も、心を騒がせたのです。それは、彼らはまだ復活のイエスさまと出会っていなかったからです。目に見える命しか知らなかったからです。しかし復活されたイエスさまに出会い、変えられていきます。そして、このイエスさまが「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたし(イエス)を信じなさい」とのみ言葉のほかに死を含めた一切の不安と恐れに打ち勝つ道がない、ここにこそ自分たちのすべてを注ぎ込むことができる真実があることが分かったのです。
イエスさまと死別するかもしれないと心を騒がせている弟子たちに、イエスさまは「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして,わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14:2,3節)と告げられました。
このみ言葉は、死は永遠の別れではないということとイエスさまは、復活して弟子たち(私たち)を父の家に迎え入れてくださるお方であることを指し示しています。私たちは、イエスさまを通してその場所に行くことができるのです。
イエスさまは十字架に架けられ苦しまれ、贖いの血を流され、死んで、葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に死を滅ぼされ、甦られ(復活され)、神の救いの御業を完成されました。つまり、イエスさまの十字架の贖いの血の恵みと主の十字架の死と復活の恵みを信じ受け入れる者は神の国(天国)の世継ぎ(神の子)として生まれ変わることができるのです。これが神の愛のご計画であり、イエスさまが父の家に私たちの場所を用意されるということの意味です。また、この神さまの愛と希望の真理を信じることが、キリスト教信仰の神髄なのです。そのこと共に、復活され、天に昇られ神さまの右に座されたイエスさまは、今は戻って来て「聖霊」となられ、この世で生き働かれ、この世で生きている私たち(全人類)の歩みを守り導いておられるのです。神さまは、私たちが神さまのご支配を、イエスさまのご支配を信じ、神さまの愛、主イエスの愛を信じて生きることを願っておられるのです。
14章の6節に「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14:6)とイエスさまがおっしゃっておられるように、 イエスさまの開かれた天国に通じる愛の道を、自分の十字架(使命)を負い(ルカ9:23)、イエスさまと共に、隣人と共に、そして皆様と共に歩んで行きたく思います。
最後に、天国における復活のいのちとは、どのようなものでしょうか。第一コリント15章の52節に「最後のラッパが鳴ると(終わりの日、再臨の日)ともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者が復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」とあります。これは「自然の体から霊の体に復活する」(15:43)こと、つまり復活の主の体(似姿)になることを示しています。また、この世では肉体に包まれている復活のいのちについて第一コリント15章20節に「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人(アダム)によって来たのだから、死者の復活も一人の人(キリスト)によって来るのです」とあり、復活の命(永遠の命)は、この世の命と肉体から解放されて霊の体をいただいて父の家(天国)で憩うのです。
この世に聖霊となられ戻られたイエスさまは、個人的には一人一人の人生を共に歩んでくださり、この世の私たちの命が終わった時、天上に引き上げて下さるのです。そして、もう一つの真理は、「イエスさまの再臨」の出来事ですが、神さまの救いの完成の時に起こることで、全人類の救いの問題を指し示しているのだと思います。